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zoom RSS 清里から甲斐善光寺へ。ミステリーいっぱいです。

<<   作成日時 : 2013/09/18 23:59   >>

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前の日記にも書いたように、所用があって甲府へ行った時に

甲斐善光寺に立ち寄り、お参りしてきました。


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木造建築としては東日本最大で、金堂の天井には日本一大きな鳴き龍もあり、

信濃善光寺を同じようにお戒壇めぐりもあります。


ここのお寺は川中島の合戦の折、武田信玄が信濃善光寺の焼失を恐れ、

永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来をはじめ、諸仏寺宝類を移す為に

建立したのが始まりだそう。

1558年と言えば、全部で5回あった川中島の戦いの3次と4次の間ということになり、

善光寺平での戦いも熾烈を極めた頃。

4次は、かの啄木鳥戦法が行われ武田信繁や山本勘助が討ち死にした戦いで

川中島の戦いの中でも一番盛り上がっていたころなので、

善光寺を移したのもうなずけます。


甲斐善光寺がある板垣の郷は、信濃善光寺を建立した本田善光のお墓がある所なので、

そういう意味でもこの地を選んだのでは、と言われています。


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信濃善光寺から移した物は、秘仏と言われる本尊から、鐘、経文、和尚さんたちまで

それこそ善光寺丸ごととも言われます。

これがその鐘です。


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当時の事ですから、この鐘は信濃から人の手によって運ばれてきた訳です。

今でも車で高速を使っても2時間以上もかかる所から、

これほどの大きく、重いものを運んだわけです。

これは引きずって運ばれたらしいのですが、

その時引きずった跡は今でもこの鐘に刻まれています。


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最初に書いたように、このお寺を建立したのは武田信玄。

武田家は、信玄が病死し、勝頼の代になってから織田家に滅ぼされます。

その後、主を失った甲斐は徳川家康のものとなります。

実は、この甲斐善光寺は宝暦四年(1754)門前の失火により焼失し、

現在の金堂・山門は、寛政八年(1796)にその徳川家によって再建

されました。

徳川家の位牌所にもなっていて、堂内にも三つ葉葵の紋が見られます。

しかし、金堂の一番上には・・・


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そう武田菱です。

徳川の時代になって200年近く経って再建されているのに、

武田菱を遺したというのは、武田家に縁のある寺というだけでなく、

武田信玄への何かしらの思いがあったからなのでは?などと勝手に想像しました。



もう一つ、このお寺を巡って残る興味深い話にご本尊の話があります。

先に書いたように、このお寺を作った時の本尊は信濃善光寺にあった本尊です。

この善光寺の本尊は、6世紀に百済の聖王(聖明王)から当時の日本へ献上された

日本仏法最初の仏像と言われています。

阿弥陀三尊像であるが、三尊像が背負っている後光は1枚の光で、

一光三尊形式と呼ばれるもの。

これを模して作られている前立像を見るにあたって、

結んだ印形や様々な意匠からもかなり古い時代のものと推測されています。

甲斐善光寺の現在の本尊も前立像ですね。


鎌倉時代にはすでに絶対秘仏とされていたと言われるほど、昔から

大変ありがたい像であることは認められていたのですが、

これに大変な物語が起こります。


武田家が滅び、甲斐に侵攻した織田信長は、この甲斐善光寺にあった

本尊を持ち帰り、岐阜城近くに移されます。

ここからわずか3か月後に本能寺の変が起こり信長が亡くなり、信長の息子織田信雄

により、尾張に移され、それを信雄と近しかった徳川家康が三河へ移します。

家康の夢枕に阿弥陀様が立ち、これにより家康は甲斐善光寺に戻すことになります。

そして、それより少し時間が流れて、豊臣秀吉が天下を治めた頃、

焼失してしまった東大寺の大仏に代わり、方広寺を作り、そこに

東大寺の大仏より大きな大仏を造立します。

しかし、これは完成した翌年に大地震が起こり大仏殿を残し大仏は壊れてしまいました。

自分の身すら守れないのか、と怒った秀吉は、再建した方広寺に

この甲斐善光寺の本尊を移します。

ところが、移した翌年から秀吉は病臥し、これは祟りではないかと、

本尊を信濃善光寺に戻しましたが、その翌日に秀吉は亡くなることとなります。



権力者がこぞって手に入れたがったこの本尊。

そして、武田家から秀吉まで、これに関わった人が次々に早く命を落とす。

ミステリーですよね。


絶対秘仏とされ、今でも善光寺の一番偉いお坊さんでも見ることは叶わず、

御開帳の時でも前立像しか拝むことができない。

お寺でのお勤めの時も、本尊のある場所の片隅だけが開けられ、

やはり誰も拝むことはできない。

長い歴史の中で、壊れた、失われたなどの噂もありますが、

きっと存在していると信じたいものです。


時の権力者たちが手にしたがった。

信長に至っては比叡山を焼打ちにしたほど

仏教や、社寺仏像を信じていなかったようなのにです。


これを手にすることが日本国王の証であったのか、

もしかすると、この仏像には公開したら大変なことになるような、

それこそ宮家の秘密とか由来などが秘められている、

とか、いろいろ想像してしまいます。

これもまたミステリーですよね。



いずれにせよ、この甲斐善光寺には戦国時代の歴史や、

それこそ武将たちの思いのようなものが今でも色濃く残っています。

戦国時代好きの僕としては、甲府へ行ったら躑躅ヶ崎城とともに

外せない場所となりました。

本当におすすめです。

僕もまた行ってみたい所です。


長文失礼しました。


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